評論

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哀調の旋律

哀しみを探す旅

柳田國男の紀行文は哀しみに満ちている。若い頃読んだ時はそれほど感じなかったのだが、人生も半ばを過ぎて改めて読み返してみると、柳田は人の哀しさを探しに旅に出たのではないかとさえ思われてくる。旅が、人をして必要以上に感傷的にするにしろ、柳田の場合、その対象は自らの内部ではなく、むしろ外側の世界に向けられている。旅してまわる先々の村の生活、人の生きる姿のなかに、哀しみを探し求めているように思われる。その哀しみを、全身で浴びようとしている。

雑木林にある一本道

抒情のゆくえ

高森文夫と中原中也の確執

高森文夫が中原中也と出会ったのは、1931(昭6)年の暮れのことである。当時、文夫は成城高校の三年生で21歳。延岡中学校(旧制、以下同様)を卒業後、上京して4年が経過していた。文夫がなぜ成城高校に入学したかは明らかではないが、上京後、受験生の身でありながら、すぐに敬愛していた日夏耿之介主宰の「黄眠詩塾」に入り、欧米文学を学んでいる。人一倍恥ずかしがり屋で、引っ込み思案の文夫が、上京後、自ら行動に出る程、日夏耿之介への思慕と文学への熱情は強かったのであろう。成城高校に入ったということが、この後の文夫の交友関係を決する契機になった。

棚田と白い小屋

『遠野物語』考

屍臭の漂う学問

「そういえば『遠野物語』には無数の死がそっけなく語られている、民俗学はその発祥からして屍臭の漂う学問であった、死と共同体をぬきにして、伝承を語ることはできない」(三島由紀夫)「死と共同体」を基底に据えた伝承が、その後どれほどつくり変えられ、語り継がれてきただろうか。むしろ三島の嘆きの方が現在まで引き継がれているようでならない。三島が題材にあげた柳田國男の『遠野物語』は日本民俗学の古典といわれている。明治43(1910)年に出版されたこの書は、遠野の人佐々木喜善という人物からの聞書という体裁をとっている。全体は百十九話から成っており、地勢の紹介、伝承、世間話や噂話、習俗や年中行事、そして昔話と鹿踊りの詞章などからまとめられている。

稲穂が垂れる田んぼに浮かぶ鳥居

椎葉探訪

言葉に浮上する共同体の姿

柳田は法制局参事官として近代国家の法制や施策を説いて全国を巡回していた。特に土地の個人所有を前提とする新しい民法の普及に奔走していた。そこで旧来から慣習として認められてきた山の共有(入会地)の是非を巡って全国各地で争議が起きていた。柳田はその山村での土地所有の実態に関心を持ち、現地調査の必要性を感じていたのではないか。廣瀬弁護士から聞いた那須の話は、落人伝説のことなどではなく、焼畑農耕や山茶の栽培、争議における山民の主張などではなかったか。

十根川神社の境内にある八村杉(ヤムラスギ)とそれを大きく見上げる老父

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