抒情のゆくえ

高森文夫と中原中也の確執

棚田と白い小屋

高森文夫が中原中也と出会ったのは、1931(昭6)年の暮れのことである。

当時、文夫は成城高校の三年生で21歳。延岡中学校(旧制、以下同様)を卒業後、上京して4年が経過していた。
文夫がなぜ成城高校に入学したかは明らかではないが、上京後、受験生の身でありながら、すぐに敬愛していた日夏耿之介主宰の「黄眠詩塾」に入り、欧米文学を学んでいる。
人一倍恥ずかしがり屋で、引っ込み思案の文夫が、上京後、自ら行動に出る程、日夏耿之介への思慕と文学への熱情は強かったのであろう。
成城高校に入ったということが、この後の文夫の交友関係を決する契機になった。

中原中也が吉田秀和を訪ねてきたその時、文夫はこの吉田とともに砧の借家に同居していた。吉田は文夫と同じ成城高校の一年後輩である。
吉田は当初、阿部六郎の家に下宿していたが、子どもができるということで追い出され、その年の1月から文夫と一緒に自炊することになったらしい。
成城高校に入学後、文夫はすぐに文芸部に所属し、校友会誌「城」に詩や翻訳を発表している。既に周囲から一目置かれる存在になっていた。
成城高校に在籍した吉田も、恐らく文学と関わりのある連中のすぐ近くにいたと思われる。吉田は高森と同居する一年前に中也と出会い、彼に家庭教師としてフランス語を教えてもらっていた。中也はその吉田を訪ねて来た。

柄杓(ひしゃく)と筧(かけひ)と笹

「吉田君が留守でわたし一人だった。日暮れ時、一人で火鉢にあたりながら本を読んでいると、全くききなれない何か一種不吉な予感さへする低い塩枯れた声がきこえて玄関の戸をたたく音がするので硝子戸を開けてみると、深い雪の中に一人の小柄な男が立っていた。雪明りのなかに真黒いソフト帽とやはり黒い外套がくっきりと印象的だったが、蒼白い顔色と凝っと見ひらいた黒い瞳が妙に大きく感じられた。難破船から匐い上ってきた船員!それがわたしの最初の印象だった。」(高森文夫)
中原中也は24歳。文夫は21歳である。フランスへ留学する目的で中也は東京外国語専修科仏語部に入学していた。
9月に弟恰三を病で亡くしたばかりである。その心情をのちに追悼詩や小説「亡弟」を書いている。またその前年、かつての同棲相手であった長谷川泰子は山川幸世の子どもを産み、中也はその名付け親になっている。

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