詩人としての柳田國男について語られることは少ない。
彼は明治期の文学を牽引した雑誌『文學界』において、新体詩や抒情詩を発表し、島崎藤村と並び賞賛されていた。この二人は、新体詩人として盛んに交流し、近代詩に新しい風を吹き込んでいる。しかし、のちに二人とも民俗学や小説の分野へと方向転換していく。
二人は詩を通して出会い、文学仲間として交流するなかで、共感と反発を抱き込みながら、晩年、断絶するに至った。
新体詩から自然主義文学へと移行する過程で、二人の感性はまったく別のベクトルを取り始める。
二人の出会いと乖離、その軌跡のなかに、近代文学の限界と新たな可能性が垣間見える。
柳田は自らの抒情詩については、一切、口を閉ざしている。その作品を著作集に収録することさえ峻拒した。そのため、若き松岡國男の抒情詩が取り上げられることはあまりなかった。
二人の生い立ちと境遇、関係を振り返るなかで、新体詩における抒情の在処を探ってみたい。
柳田國男(旧姓松岡)は1875年(明治8年)7月31日に兵庫県神東郡田原村辻川(現福崎町)で生まれている。
松岡家は代々医家であり、父賢次は医学と儒学とをおさめた。
長兄鼎(かなえ)は医者でのちに千葉県議会議員や県医師会長を努めている。
三男井上通泰も医者で歌人である。宮中顧問官、貴族院議員、帝国芸術院会員を歴任している。
七男松岡静雄は軍人で海軍軍令部参謀、外国駐在武官、海軍大佐となっている。
八男松岡映丘は画家で東京美術学校教授、新興大和絵会、国画院を結成し、帝国芸術院会員に選任されている。
國男は六男であるが、東京帝国大学を卒業後、農商務省に入り、26歳の時、信州「柳田家」に養子入りしている。
一方、島崎藤村(本名春樹)は1872年(明治5年)3月25日に長野県西筑摩郡神坂村字馬籠で生まれている。
島崎家は馬籠の本陣であり、問屋や庄屋を兼ねていた。
長兄秀雄は詐欺事件で二度も投獄され,次兄は遊郭遊びで性病をうつされて廃人同様の身となっている。
三男は母の不貞の子であった。姉も精神に異常をきたしている。春樹は四男であるが、本人もその気質を怖れていたといわれる。
許嫁のいた教え子佐藤輔子に恋し、姪こま子との間に一子を設け、助手加藤静子と再婚する。 芥川龍之介は島崎藤村のことを「老獪なる偽善者」と称した。
『哀調の旋律』所収