柳田國男の紀行文は哀しみに満ちている。
若い頃読んだ時はそれほど感じなかったのだが、人生も半ばを過ぎて改めて読み返してみると、柳田は人の哀しさを探しに旅に出たのではないかとさえ思われてくる。
旅が、人をして必要以上に感傷的にするにしろ、柳田の場合、その対象は自らの内部ではなく、むしろ外側の世界に向けられている。
旅してまわる先々の村の生活、人の生きる姿のなかに、哀しみを探し求めているように思われる。その哀しみを、全身で浴びようとしている。
大正9年(1920年)から翌年にかけての東北から沖縄に至る旅は、その情景が何よりも強く表出しているように思われるのである。
柳田はその前年(1919年)、まだ四十五歳の若さで貴族院書記官長を辞任している。
この当時、日本は日露戦争に勝利し、まがりなりにも明治近代国家を完成し、大正デモクラシーを謳歌し始めた時期であった。
しかし、四十歳代半ばになっていた柳田は、どうもそれらの風潮に馴染めないものを感じ初めている。
かつて抒情詩人として文壇デビューしたにもかかわらず、その期待を棄てて官界に身を置いた柳田ではあった。
この時もまた貴族院書記官長という要職にありながら、そのエリート官僚を投げ棄て、以後、官界とも袂を別ったのである。文学的にしてあまりにも政治に近く、政治的にしてあまりにも文学の近くにいた。
しかし、その両方ともに飽き足らないものを感じていたのであろう。挫折といえば挫折といえないこともないが、柳田の場合、自らが決断した結果の身の処し方であっただけに、そこには挫折感というより、むしろ自らの思索と行動に対する焦燥感みたいなものが感じられる。その焦燥感の原因を探るために旅に出たとも思われてくる。
その感慨はどうも人の生きることへの根源的なはかなさまで届いていたのではないか。柳田の紀行文に流れるその哀しみの調べは、彼の生きた時代の与えた軋みばかりでなく、人間本来の持つ宿命的な侘しさなどが二重三重に共鳴しあいながら響いてくるように思われるのである。
官界を辞した後、柳田は「三年間ほどは自由に旅をさせる」ということを条件に、朝日新聞社に入社した。そして早速、大正九年の夏に東北を、秋には中部、関西、中国を、その暮れから翌年にかけては九州、沖縄を旅している。この時の旅から、紀行三部作といわれる『雪国の春』『秋風帖』『海南小記』が生まれたのは、周知のとおりである。
これらは柳田の膨大な著作のなかでも、もっとも文学的香気の高い作品群としても知られている。と同時に柳田の生涯のなかで、この時期は民俗学創生への大きな転換点にあっただけに、柳田学の原点ともいうべき詩情や思索が特徴的に表れていると思われる。ここでは、日向路の旅も含まれる『海南小記』を中心に、柳田の見つめる哀しみの在り処を探ってみたい。
『哀調の旋律』所収